人生でいちばん甘いチョコレートは、たぶんもう食べられないのだと思う

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子どもの頃、夕飯の少し前、台所の戸棚から、こっそりチョコレートを一個盗み出して食べたことを、私はいまでも覚えている。

母が背を向けている隙だった。あの透明な紙のようなものを、なるべく音を立てないように開いて、口の中でゆっくり溶かした。喉の奥がきゅっとなるくらい、甘かった。あの一瞬の、心臓のばくばく具合まで覚えている。

たぶん、あれよりも美味しいチョコレートを、私はその後の人生で食べていない。

そして、これはたぶん、私だけの話じゃない気がする。

夏休みの宿題を放り出して見た、平日の昼のテレビ。受験勉強中、布団に潜って読んだ漫画。授業をサボって寄り道したコンビニのアイス。誰かと交わした、ばれてはいけない目配せ。私たちはみんな、似たような「人生でいちばん甘かったチョコレート」を、どこかに一つずつしまっているんじゃないかと思う。

不思議なのは、いまの私が、当時と同じ銘柄のチョコレートをコンビニで買って食べても、絶対にあの味にはならない、ということだ。原料は変わっていない。むしろ製法は当時より良くなっているはずだ。なのに、あの味にならない。

これって、なんなんだろう。

最近、毎朝の二度寝についてぼんやり考えていて、その答えに行き当たってしまった気がする。今日はその話を書いてみようと思う。

アラームを止めた、あの30分も同じだ

朝、アラームが鳴る。スマホを掴んで、止める。

そこで、ほんの一秒、判断が挟まる。「起きるか、もう少しだけ寝るか」。たいてい、私は「もう少しだけ」を選ぶ。布団の中は暖かい。窓の外は明るくなり始めていて、世界はもう動き出している気配がある。それでも、ちょっとだけなら大丈夫だろうと自分に言い聞かせて、目を閉じる。

そして、たいていは寝過ごす。「5分だけ」のつもりが30分になっていて、跳び起きて、慌てて支度をして、駅まで走る。

走りながら、いつもちょっと不思議に思う。

睡眠時間という意味では、圧倒的に夜の本格睡眠のほうが長い。健康にもたぶん夜のほうがいい。それは知っている。それでも、二度寝のあの30分の幸福感は、夜の8時間では絶対に得られない種類のものなのだ。

これって、あの夕飯前のチョコレートと、たぶん同じ仕組みをしている。

「やっちゃいけないこと」がセットになっているから

二度寝が二度寝として成立するには、ある条件が必要だ。

「もう起きなきゃいけない時間だ」という認識。これがないと、二度寝にはならない。何の予定もない休日、何時に起きてもいい朝に、だらだら寝続けるのは、ただの「長く寝た」であって、二度寝じゃない。あの甘さがそこにはない。

二度寝が二度寝として甘いのは、「本当はもう起きるべき時間だけど、もう少しだけ」というあの背徳感が含まれているからだ。つまり、二度寝は単なる睡眠ではなくて、「起きるべきなのに、起きない」という小さな違反を含んでいる行為なのだ。

違反だから、甘い。

そして、夕飯前のチョコレートも、まったく同じだった。

「夕飯前にお菓子を食べちゃいけない」という決まりがあったから、こっそり食べたあのチョコレートは、異常に甘かった。誰にも怒られない時間に、堂々と食べる同じチョコレートは、ただのチョコレートだ。あの甘さは、チョコレートそのものから来ていたのではなくて、「禁じられていた」という事実から、ほとんど来ていた。

そう考えると、いろんなことが繋がってくる気がする。

罪悪感とセットの幸福

ダイエット中に食べてしまうアイス。あれって、おかしいくらい美味しい。普段、何も気にしていないときに食べる同じアイスより、たぶん2倍は美味しい。原料は同じはずなのに。

勉強しなきゃと思いながら見るYouTube。とんでもなく面白い。試験前夜の夜食。神に近い美味さがある。仕事を抜け出して買うコンビニのコーヒー。普段の3倍の価値がある気がする。

これら全部に共通しているのは、「やっちゃいけないこと」がセットになっていることだ。

ダイエット中じゃないアイスは、ただのアイスだ。土曜の朝に堂々と見るYouTubeは、ただのYouTube。

要するに、罪悪感とセットになっていない快楽は、たぶん思ったほど美味しくない

制約があるから、反抗できる

ここで、もう少し大きな話が見えてくる気がする。

私たちが「快楽」だと思っているもののかなりの部分は、たぶん、「制約」と「反抗」のセットからできている。

制約があるから、反抗できる。反抗できるから、ちょっとだけ罪悪感が生まれる。罪悪感があるから、その行為が甘くなる。甘さは行為そのものから来ているんじゃなくて、制約との関係性から生まれている

考えてみると、お酒、たばこ、深夜の夜食、サボり、寝坊、勉強せずに遊ぶこと、夕飯前のお菓子、運転中に大声で歌うこと──挙げ始めるとキリがないけれど、私たちの「ちょっとした楽しみ」のほとんどは、何かしらの「やらないほうがいい」「やるべきじゃない」とセットになっている。

全部許可された世界を想像してみる。誰にも何にも怒られない。寝坊しても誰も困らない。お菓子をいくら食べても、ダイエットも病気もない世界。

なんとなく、その世界では、これらの行為が今ほど甘くない気がしてしまう。むしろ、退屈そうだ。

それでも、義務が必要だと言いたいわけじゃない

ここで誤解されたくないのだけど、私は「だから制約があったほうがいい」「みんなもっと働け」みたいな話をしたいわけじゃない。

過剰な制約は、ただ苦しい。ブラック企業は、ただひどい。「お前のためを思って」と言いながら自由を奪うのは、ほとんど暴力だ。それは別の話だ。

ただ、私たちが「あらゆる制約から解放されれば幸せになれる」と信じすぎているとしたら、それはたぶん少しだけ違うのだろうと思う。本当に全部の制約を取っ払ったら、私たちが大事にしている多くの小さな幸福が、一緒に消えてしまうかもしれない。

二度寝。サボり。こっそり食べるお菓子。仕事中のコーヒー。試験前夜の謎テンション。

これらは、義務や制約の隙間に咲く、ちっぽけな花みたいなものだ。義務がなくなったら、隙間もなくなって、花も咲かない。

大人になった私の、ちっぽけなチョコレート

いまの私が、子どもの頃と同じ銘柄のチョコレートを買って、夕飯の前に食べたとしても、絶対にあの味にはならない。理由は単純で、いまの私はもう「夕飯前にお菓子を食べちゃダメ」と怒られる年齢じゃないからだ。誰にも禁じられていない夕飯前のチョコレートは、ただのチョコレートに戻ってしまう。

人生でいちばん甘いチョコレートは、もう、どこにもないのだと思う。

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