日が落ちた電線のない街を歩いて、空が、ちょっと怖くなった
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19時ほどに、駅前を歩きながら、なんだか妙な気分になった。
何かが違うのだけど、すぐにはそれが何か分からない。しばらく見回して、ようやく気づいた。電線がないのだ。地中化されているらしくて、空にはあの黒い線が、一本もない。

※ 画像は2枚ともAIで生成したものです(比較用に電線あり・なしを並べています)。
そして、不思議なことが起きた。
その街は、確かにスッキリしていた。客観的に見れば「綺麗」と言っていい光景だ。なのに、なぜか少しだけ、不気味だった。同時に、なんとなく「これが未来の街並みなんだろうな」と思って、すんなり受け入れられそうな気もした。
不気味と、馴染みそう。
矛盾しているこの二つの感覚は、たぶん、同じ場所から来ている。
それはなんなんだろう、と思って、ぼんやり考え続けた。最初は「電線が空への蓋だったから、それがなくなって畏怖が戻ってきたんだ」と思った。これは結構いい仮説だと自分でも思った。
けれど、よく考えると、これはちょっとおかしい。
昔の人だって、不気味な空の下にいたはずだ
電線が空への蓋だったとして、じゃあ昔の人はどうしていたんだろう。
電線どころか、屋根もろくにない時代があった。彼らは毎日、巨大な空の下にむき出しで立って暮らしていた。もし「空に蓋がない=不気味」だとしたら、彼らはずっと不気味さに耐え続けていたことになる。
でも、たぶんそうじゃない。
彼らも、空に対する強い感情を持っていた。畏怖と呼ばれるものだ。雷が落ちると神の怒りだと思い、嵐が来ると神の罰だと思い、月食が起こると世界が終わると思った。空は、決して安心できる対象ではなかった。
ただ、それは私がいま電線のない街で感じた「あの種類」の不気味さとは、たぶん違う。
昔の人が感じていた畏怖には、相手がいたのだ。
雷神がいた。太陽神がいた。星座があった。空には、彼らが見上げるたびに、何かしらの「具体的な相手」がいた。だから、神社を建て、生贄を捧げ、祈り、神話を語り、その畏怖を処理することができた。
その証拠に、世界中の文明が、独立に空を神にしている。
世界中の人類が、空に神を置いた
これは調べていて驚いたところだ。
古代ギリシャ人は、空の最高神をゼウスと呼んだ。ローマ人はユピテルと呼んだ。エジプト人はホルス、マオリ族はランギヌイ、アステカ人はテスカトリポカ、モンゴルやトルコ系の遊牧民はテングリ、中国人は天(ティアン)、インド人はディヤウスと呼んだ。
これら全部、お互いに会ったことのない文明だ。なのに、全員が独立に、同じ結論に行き着いている。「神は、空にいる」と。
しかも、面白いのはここからで、印欧祖語(インド・ヨーロッパ語族の元になった古代語)には、「空・昼」を意味する「ディヤウス(dyeus)」という言葉があって、これが分岐していって、ゼウス、ユピテル(dyeu-pater =「空の父」)、英語の deity(神性)、divine(神聖な)、そして day(昼)という単語にもなっている。
つまり、「神」という言葉そのものが、もともと「空」という意味だったということだ。
日本も同じだ。『古事記』に書かれた神々の最初の住処は、「高天原(たかまがはら)」、つまり「高い・天の・原っぱ」。読んで字のごとく、空の上の野原だ。日本の神々は「天津神」「天照」「天皇」と、ほとんどが「天」という字を背負っている。
ここから分かるのは、人類は空を見上げて、そこに「何か」を発見する生き物だった、ということだ。何もなかったわけじゃない。むしろ、空には何でもあった。星があった、雲があった、月があった、雷があった、鳥が飛んでいた、神々が住んでいた。昔の空は、ノイズで満ちていた。
そして、そのノイズひとつひとつに、彼らは名前と意味を与えた。だから空は怖いけど、処理できた。畏怖の相手が、ちゃんと見えていた。
私たちは、空からノイズを消してきた
ところが、私たちは少しずつ、空からノイズを取り除いてきた。
雷は、もう神の怒りじゃない。電気現象として説明できる。週間天気予報で、雷雨は2日前から分かる。
星は、もう見えない。光害で、世界人口の80%が天の川を見られなくなった。日本のような都市圏では、肉眼で確認できる星は、ほぼ数えるほどしかない。2023年に生まれた子どもは、18歳になる頃には、見える星の数が今の半分以下になる、というデータもある。
雲は、衛星画像で常時監視されている。
鳥は、都市部では種類も数も減った。
つまり、昔は空にあった「何か」が、ひとつひとつ消えていっている。神々はとうに退場し、星も消え、雷神も天気予報になった。
それでも、まだ何かが残っていた。
電線だ。
電線は、空を細切れにしていた。空を、視覚的に「処理可能な大きさ」に区切ってくれていた。たとえ星が見えなくても、電線越しに見上げる空は、まだ「電線の向こうの空」として、視覚的に何かしらの構造を持っていた。
私たちは知らないあいだに、電線という、空に残った最後のノイズにすがって生きていた。
そして、それすらも取り除かれた瞬間に、私たちは初めて、本当に空っぽの空と対面することになる。
「対象のない畏怖」という、新しい感情
ここまで考えて、私はようやく、自分が電線のない街で感じたものの輪郭が見えた気がした。
それは、対象のない畏怖だ。
昔の人の畏怖には、対象があった。雷神を怖がる、太陽神を仰ぐ、星座を読む。畏怖は怖いけれど、対象がいるから、向き合えるし、祈れるし、神話を作って処理できる。畏怖は怖いものでありながら、同時に、世界を意味づける道具でもあった。
私が感じたのは、それとは違う。空に星はもうない。神もいない。雷も予報の対象だ。雲はただの気象現象だ。なのに、空はそこにある。広大な、何もない、空っぽの空が、ただそこに広がっている。向き合う相手のいない、巨大な空虚。怖がる対象すらいないのに、なぜか少しだけ、寒気がする。
これは、人類が今までに経験したことのない種類の感覚なんじゃないか、と思う。何万年もの間、人類はずっと「ノイズに満ちた空」を見上げて生きてきた。「対象のない畏怖」、というのは、たぶん、現代になって初めて作られた、新しい感情だ。
「すんなり受け入れられそう」と同時に感じたのも、たぶん、この感情の特徴だ。対象がないということは、何の意味もしていないということでもある。意味がないから、解釈の負荷がない。だから馴染める。同時に、意味がないから、不気味でもある。
馴染みそうで、不気味。両方が同居しているのは、たぶん、これが「対象のない」感情だからだ。
それでも、電線を残せと言いたいわけじゃない
ただ、私たちが何を作りつつあるのかは、たぶん、知っておいてもいい。
人類は、何万年もかけて、空のノイズをひとつひとつ消してきた。星を消し、雷を予報し、神々を退場させた。そして電線を埋めた。その結果として現れる空は、たぶん、私たちのご先祖が誰も見たことのなかった種類の空だ。
何もない、空っぽの、ただ広い空。
そして、その空の下で、私たちはたぶん、対象のない畏怖という、新しい感情を、これから慣れていくことになる。
神様がいなくなった空の下で
電線のない街を歩いて、私はちょっとだけ、不気味さを感じた。
その不気味さは、たぶん、ご先祖たちが感じていた畏怖の残響じゃない。彼らの空には、神様がいた。雷神がいた。星座があった。彼らは怖いけど、空と対話できた。
私が感じたのは、たぶん、何もない空の前で、私たちが対話する相手を失った、ということに対する、ぼんやりとした感覚だ。怖さというよりは、ちょっとした寂しさに近いかもしれない。
これからの街は、もっと電線が減っていく。空はもっと広く見えるようになる。星はもっと見えなくなる。
私たちは、人類が一度も住んだことのない、空っぽの空の下で、これから暮らしていくのだと思う。
そして、たぶん、それにも慣れていく。「対象のない畏怖」が、当たり前のものとして、空気のように生活の中に溶けていく日も、そのうち来るのだろう。
ああ、そんなことを考えてたら、もう家が近い、電線がある、普通の空だ。
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