電車で寝てる人が、ちゃんと自分の駅で起きる話

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満員電車に揺られていて、ふと隣の人を見ると、完全に寝ている。口がちょっと開いていて、首がカクン、カクン、と揺れている。完全に意識がない、というやつだ。

私は隣で、「この人、絶対降りる駅、過ぎちゃうな」と勝手に心配する。

ところが、目的の駅が近づいてくると、その人はおもむろに目を開ける。背筋を伸ばして、まばたきを数回して、すっくと立ち上がって、何事もなかったように電車を降りていく。

毎回、これを目撃するたびに、私はちょっと不思議になる。

なんで、ちゃんと起きるんだろう。

完全に寝ていた。脳は休んでいたはずだ。なのに、降りる駅の手前で、ちゃんと意識が戻ってくる。アラームをかけていたわけでもない。誰かに肩を叩かれたわけでもない。なのに、なぜか起きる。

これ、よく考えると、結構すごいことだ。私たちの中の何かが、寝ている間もずっと「次は新宿、次は新宿」と聞いていて、しかも目的の駅の手前で起こしてくれている、ということになる。

なんで、そんなことが可能なんだろう。

聞いている誰か

調べてみると、これにはちゃんと名前のある現象らしい。睡眠中も、脳の一部は完全には休んでおらず、外の情報を弱く監視し続けているそうだ。だから親は赤ちゃんの泣き声で目が覚めるし、自分の名前を呼ばれると目が覚める。

ただ、これだけだと説明しきれない気もする。

なぜなら、電車で寝ている人は、「自分が降りる駅」のときにだけ起きるからだ。他の駅のアナウンスでは起きない。新宿で降りる人は、池袋でも渋谷でも起きない。新宿のときだけ、ちゃんと起きる。

つまり、私たちの中の「番兵」は、ただ音を聞いているわけじゃない。「自分にとって意味のある音」と「意味のない音」を、寝ながらにして選り分けている、ということになる。

これって、改めて考えると、ちょっと信じられない芸当だ。

そして、この芸当には、たぶん二つの仕組みが噛み合っている。

一つ目: 寝過ごしたくない、というかすかな不安

一つ目は、たぶん、不安だ。

電車で寝るとき、私たちは完全に安心して寝ているわけじゃない。心のどこかに「寝過ごしたら、面倒なことになる」という、ごく薄い、しかし確実な不安がある。会社に遅刻する、終電を逃す、知らない駅で目覚める、料金が余計にかかる、いろいろある。

その薄い不安が、寝ている間も消えずに、ずっと監視を続けている。

これって、考えてみると、夜の眠りでも同じことが起きている気がする。

たとえば、明日早朝のフライトがある日。アラームを何重にもかけて、それでも私たちは夜中に何度か目を覚ます。「まだ大丈夫か、まだ起きる時間じゃないか」と確かめる。何のプレッシャーもない日には、アラームが鳴るまで一度も起きずに寝られるのに、何かが控えている日は、なぜか自然と目が覚める。

逆に、何もない休日にうっかり昼寝をすると、平気で4時間とか寝てしまう。あれは、起こす番兵が、休日には休んでしまっているからだと思う。「今日は別に、どこにも行かなくていいですよ」と聞かされて、番兵は安心して持ち場を離れる。

不安は普段、悪者扱いされがちなものだ。なくしたいもの、減らしたいもの。けれど、こと「ちゃんとした時間に目を覚ます」ということに関しては、不安が私たちを守っている側面が、確かにある。

二つ目: 「降りる駅」という、自分に渡された役割

ただ、不安だけでは、まだ説明が足りない。

不安があるなら、新宿で起きる人は、池袋のアナウンスでもちょっと目を覚ましてもよさそうなものだ。でも、たいていは起きない。新宿のときだけ、ちゃんと起きる。

ここに、もう一つの仕組みがある気がする。それは、「自分にはこの駅で降りる役割がある」という、引き受けた責任だ。

電車に乗った瞬間、私たちは「新宿で降りる人」になっている。何時何分の電車に乗って、新宿で降りて、そこから乗り換えて、何時までに会社に着く、という一連のタスクを引き受けている。その役割が、寝ている間も、ずっと私たちの中で動き続けている。

役割を引き受けていない情報は、脳に入ってこない。だから池袋のアナウンスは素通りする。役割と結びついた情報だけが、寝ている脳を一瞬で起こす。

つまり、ここで起きていることは、こういうことだ。

「責任を引き受けている」ということが、私たちの中の番兵を機能させている。

逆に言うと、何の責任も引き受けていない状態では、番兵は働かない。だから、行き先のないバスで居眠りすると、終点まで普通に寝過ごす。何の予定もない休日の昼寝では、夕方まで気持ちよく寝てしまう。役割がないと、人は驚くほど無防備に眠れる。

そして、ここまで来てしまうと、もう一つの不思議な事実に行き当たる。

役割があるほうが、実は「ちゃんと休めている」

電車で寝ている人は、完全に休んでいるように見える。けれど、彼は同時に「新宿で降りる」という役割をずっと抱えていて、その役割が無意識のところで番兵をしてくれているから、安心して寝ていられる。

もし番兵がいなかったら、彼は怖くて寝られないはずだ。「もしかしたら寝過ごすかもしれない」が、ちゃんと制御されていないなら、安心して目を閉じることはできない。

つまり、こういう話になる。

責任があるから、安心して休める。

これ、よく考えると、休日のだらだらした昼寝のあとに、なぜか妙に疲れている、という現象とも繋がってくる気がする。

何の責任もなく寝た4時間は、たっぷり休んだ気がするのに、起きたあとなんだか頭が重い。一方で、満員電車の20分の居眠りは、たった20分なのにすっきりする。睡眠時間の長さの問題じゃない。

たぶんあれは、役割を抱えた眠りと、役割を全部投げ出した眠りで、休息の質がそもそも違うのだ。役割を抱えたまま寝るほうが、人間にはちょっと自然なのかもしれない。完全に役割を投げ出した睡眠は、自由なように見えて、その自由さに人間の体が戸惑っている。

「休みたい」と私たちは普段言う。「責任から解放されたい」と言う。でも、本当に全部の責任を取り上げられた状態で寝てみると、思っていたほど休まらない。これはたぶん、これまでの記事でも何度か出てきた話と、地続きだ。完全な自由は、思っているほど甘くない。

それでも、責任が必要だと言いたいわけじゃない

ここで誤解されたくないのだけど、私は「だから責任を持てる人間でいよう」みたいな精神論を言いたいわけじゃない。

過剰な責任は、ただ人を壊す。眠れなくなるほどの不安は、ただ苦しいだけだ。「お前にはこれだけの責任がある」と過大なものを背負わされて潰れる人は、いくらでもいる。それは別の話だ。

ただ、私たちが日常で「責任」とか「役割」と呼んで嫌がっているもののいくつかは、たぶん、実は私たちを支えている側面もある、ということだ。

完全な無責任の中で寝ようとすると、たぶん、人間はうまく寝られない。何かを抱えているから、何かを置けるのだ。

次の駅で、たぶんあの人は起きる

私の隣の人は、まだ寝ている。口は相変わらず少し開いていて、首はカクン、カクン、と揺れている。

電車は速度を落とし始める。アナウンスが流れる。次は、新宿、新宿です。

その人は、おもむろに目を開けて、背筋を伸ばして、まばたきを数回して、すっくと立ち上がって、電車を降りていく。

車両の中には、まだ何人か、寝ている人がいる。みんなそれぞれ、自分の駅で起きるのだろう。

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