人がいちばん正直になれるのは、お金が絡まない場面なのかもしれない
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子どもの頃、母によく「タダより高いものはない」と言われた。
でも最近、献血について調べていて、ある一つの事実に行き当たってしまった。お金が絡んだ瞬間に、人は嘘をつく。だからこそ、お金を入れないことで、かろうじて守られている場所が、私たちの社会にはまだいくつか残っている。
その発見が、母の言葉に対する、私なりの長い答えになった。今日はその話を書いてみようと思う。
「タダ」を警戒する私たち
道で配られているティッシュを受け取りそうになったとき。ショッピングモールで「無料体験」の声がかかったとき。スーパーの試食コーナーで遠慮なく爪楊枝を伸ばそうとしたとき。そのたびに、母はちょっと声のトーンを落として、「タダより高いものはないからね」と言った。
子どもながらに、そういうものか、まあそうなんだろうな、と思っていた。なぜそう言えるのか、と聞かれると、説明はできなかった。母も、たぶん深い理由までは持っていなかった気がする。祖母、曾祖母の代からひそひそと受け継いだ、生活の知恵のようなものだったのだろうと思う。
大人になってみると、確かに、世の中の「無償」にはたいてい裏がある。無料アプリには広告がついている。フリーWi-Fiにはセキュリティの代償がある。「初回無料」の先には継続課金がある。「お試し」の先には勧誘がある。私たちの中には、「タダ」という言葉に出会うたびに、まず「で、何が引っかかってくるんだろう」と考えるような人もいるだろう。
これは私たちが意地悪なわけではなくて、たぶん、社会の側がそういうふうに私たちを訓練してきたからだ。お金を払わない代わりに、注意を払う。データを払う。時間を払う。なにかしらの対価を、目に見えにくいかたちで支払っている。そういう仕組みに、私たちはずいぶん慣れてしまった。
だから、本当に純粋な「無償」というものに出会うと、むしろ不安になる。「いや、なにか裏があるはず」と勝手に身構える。これはもう、現代に生きる私たちの、ある種の癖みたいなものなのだろう。
そんなことを考えていて、ふと、頭の中に「献血」という単語が浮かんだ。
献血という、ちょっと不思議な「タダ」
献血ルームの前を通ると、「ありがとう、あなたの献血で救われました」みたいなポスターがよく貼ってある。あれを見るたび、なんとなく良いことだなと思って通り過ぎる。
でも、よく考えると、献血って、不思議な制度だ。
私たちは、自分の血を、一円ももらわずに、見知らぬ誰かに渡している。針を刺されて、血を吸われて、ジュースを飲んで、アイス食べて、お菓子を貰って帰る。それだけのやり取りで、私の血液は、私の知らない誰かの体の中に入っていく。お礼の手紙が届くわけでもない。「先日は助かりました」と挨拶されるわけでもない。完全に、一方的な行為だ。
これって、私たちが普段警戒している「タダ」とは、ぜんぜん種類が違う気がする。「タダ」の裏に何か取られているわけじゃない。むしろ、こっちが純粋に提供している側になっている。なのに、なぜか不安にならない。
なんでだろう、と思って、少し調べてみた。そうしたら、思っていたよりも、はるかに重い話に行き当たってしまった。
かつて日本で起きた、売血の悲劇
調べてみてまず驚いたのは、日本でも、ほんの数十年前までは、血液は「売り買いするもの」だった、という事実だった。
戦後の日本では、輸血用の血液のほとんどは、お金を払って買い集めたものだった。1960年代の前半までは、ほぼ100%が売血だったらしい。生活に困った人たちが、ちょっとした現金収入のために、血を売っていた時代があった。
ただ、これがあまりよくなかった。
問題は二つあった。
一つは「黄色い血」と呼ばれる現象。同じ人が、生活費のために、回復を待たずに何度も血を売る。すると、血の中の赤い成分(赤血球)が間に合わないまま、黄色っぽい血漿ばかりが目立つようになる。これでは輸血の効果が下がってしまう。
もう一つは、感染症のリスクだ。お金が欲しい売血者は、自分の健康状態に問題があっても、それを正直に申告しないことがあった。すると、感染症を持った血液が、知らないうちに患者さんに輸血されてしまう。
1964年、駐日アメリカ大使が暴漢に襲われ、その治療のために輸血を受けた。けれど、その輸血で大使は肝炎に感染してしまう。輸血された血液が、売血で集めたものだったからだ。この事件をきっかけに、日本政府は「もう売血はやめよう。これからは献血だけでやろう」と決めた。1974年には、輸血用の血液はすべて献血だけでまかなえる体制が整った。
つまり、いま私たちが当たり前のように「いいこと」と思っている無償の献血制度は、半世紀ほど前に、それなりの痛い経験を経て、ようやくつくられたものだったのだ。
お金が絡むと、人は嘘をつく
ここで、私はちょっと考え込んでしまった。
「お金を払って買った血」よりも、「タダでもらった血」のほうが安全だった、という結論になっている。普段の感覚だと、「お金を払うほうがちゃんとしている」と思いがちなのに、こと血液に関しては逆なのだ。
これ、世界保健機関(WHO)も同じ考え方をしている。1975年から、WHOは加盟国に対して「血液は自発的かつ無償で集めるべき」と一貫して呼びかけてきた。理由はシンプルだ。
お金が絡むと、人は嘘をつくから。
少しでも報酬が出るとなると、人はその報酬を得るために、自分の健康状態をごまかしてでも血を売ろうとする。「ちょっと体調悪いんだよな」と思っていても、「まあ大丈夫だろう」と申告してしまう。逆に、お金が一切絡まない場合、わざわざ嘘をついて献血する理由がなくなる。「今日はちょっと体調悪いから、また今度にしよう」と素直に言える。
つまり、「タダ」であることが、嘘をつくモチベーションを消している。
これって、よく考えると、すごい逆説だ。「タダだから安く済んでいる」のではなくて、「タダだからこそ、結果的に最も信頼できるものが集まる」という構造になっている。お金が、信頼を壊してしまうことがある。お金を関わらせないことが、品質を担保することがある。
ここまでくると、献血の話を超えて、もう少し大きな話に見えてきてしまう。
お金を入れないから、守れている場所
お金が絡むと、人は嘘をつく。
これ、ちょっと頭の中で転がしてみたら、献血以外にも、似た仕組みで動いているものが、私たちの周りには結構あるな、と気づいた。
たとえば、裁判の陪審員や裁判員は、お金で雇われたプロではない。普通の市民が呼ばれて、無償(に近い額)で参加する。なぜか。お金で動く人を裁きの場に置くと、お金で動かされる可能性が出てしまうからだ。「公平に判断する」というたった一つの仕事のために、お金を意図的に遠ざけてある。
選挙の投票もそうだ。投票してもお金はもらえない。むしろ「対価」が発生した瞬間に、その票は買収になり、選挙そのものが壊れる。「タダで一票を投じる」ことが、民主主義の前提になっている。
学術の論文を査読する研究者にも、報酬はほとんど出ない。「お金のためにこの論文を通そう」が成立したら、科学が成立しない。お金が絡まないから、彼らは正直に「これはダメだ」と書ける。
要するに、世の中には「お金を入れないことで、かろうじて成立している場所」があるということだ。
逆に言えば、お金を入れた瞬間に、その場所は壊れる。あるいは、純度が下がる。広告主の意向に染まったレビューサイト。スポンサーに気を遣う番組。再生数のために過激化する動画。私たちは、「お金が絡んだ情報は、純度が下がっている」と知りつつ、毎日それを浴びている。
それでも、お金は悪ではない
ここで誤解されたくないのだけど、私は「お金が悪だ」と言いたいわけじゃない。
お金は便利だ。お金があるから、知らない人どうしが取引できる。お金があるから、見ず知らずの誰かが私のためにパンを焼いてくれる。お金がなかったら、私たちの暮らしは数日で止まる。お金そのものは、社会を回すための、ものすごく優れたツールだ。
ただ、すべての場所にお金を入れていいわけではない、ということなのだと思う。
献血や、陪審員や、投票や、論文の査読。これらは、「お金を入れないこと」が、その場所の質を守っている。お金を入れたほうが効率が上がるように見える場面でも、そこにお金を入れた途端、そもそもの目的が壊れてしまうことがある。
大人になるというのは、たぶん、その「入れていい場所」と「入れちゃいけない場所」を、なんとなく見分けられるようになることなのだと思う。世の中の多くの場面では、お金を払ったほうが速くて正確だ。けれど、ある種の場面では、お金が混ざった瞬間に、何かが死ぬ。
母が私に「タダより高いものはない」と教えてくれたのは、たぶん、子どもの私が「お金がなくても受け取れるもの」を不用意に信じすぎないように、という用心だったのだろうと思う。それは、世の中の多くの「タダ」については、いまも正しい教えだ。
ただ、世の中には、もう一種類の「タダ」がある。
お金を関わらせなかったから、嘘がない場所。 お金が混ざらなかったから、信頼が残っている場所。
私たちは、その場所を、ちょっと数を減らしながら、それでもまだ、なんとか持っている。
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