いつでも冷静になることは大事だというけれど、本気で怒る人はもう少ないのかもしれない

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「冷静になりなさい」「カッとならないで」「落ち着いて話して」。

私たちは子どもの頃から、何度この言葉を聞いただろうと思う。家でも、学校でも、職場でも、社会のあらゆる場面で、感情的になることは、なんとなく「未熟さ」のサインとされている。冷静に話せる人が立派で、感情を露わにする人は子どもっぽい。これは、いまの社会のほぼ大前提と言っていい。

私もずっと、そう信じてきた。

ただ、最近、その言葉に少しだけ違和感を覚えるようになった。

きっかけは、いくつかある。教育現場で「叱責」がハラスメントとして問題化されるニュース。先生が生徒を本気で叱れなくなった、という現場の声。「冷静なフィードバック」しか許されなくなった指導現場。そして、そういう環境で育った若い世代が、ほんの少しの圧で折れてしまう、という現象。

これらが、ぼんやりと繋がってきたとき、私は一つの仮説に行き当たった。

私たちは、冷静さを獲得したんじゃなくて、本気で怒る体力を失ったんじゃないか、という仮説だ。

本気で怒ってくれる大人が、確かにいた

子どもの頃を思い出してみると、私の周りには、本気で怒る大人が、確かにいた。

小学校の担任の先生は、クラスでいじめが起きたとき、真っ赤な顔をして30分くらい怒り続けた。声が震えていて、目に涙が浮かんでいるようにも見えた。あの30分のあいだ、教室の空気は完全に止まっていて、誰もまばたきすらしなかった。何を言われたか、細かい言葉は覚えていない。でも、先生が本気で悲しんで、本気で怒っているということだけは、痛いくらいに伝わってきた。

近所のおばさんは、私が道路で危ない遊びをしていたとき、家から飛び出してきて、私の腕を強く引いて、「あんた、死ぬよ!」と怒鳴った。知らない子どもに、本気で怒鳴った。あのときの彼女の顔と、私の腕に残った指の跡は、いまでも覚えている。

父は、私が嘘をついたとき、机を叩いて、声を荒げて、「人を騙すのが一番悪いことだ」と言った。私はびくびくして、泣いて、その場では半分しか理解できなかったけど、嘘というものが大人を本気で怒らせることがあるということは、その日に学んだ。

こうやって書いていると、ちょっと懐かしいような、けれど同時に、少し変な気持ちにもなる。

なぜなら、いまの基準で言えば、これらは全部、ハラスメントに見えなくもないからだ。

30分間真っ赤になって怒る先生。子どもの腕を強く引いて怒鳴る大人。机を叩いて声を荒げる父親。現代の感覚で書けば、それぞれ一報のクレームが入ってもおかしくない場面に見える。

でも、私の中で、これらは「怖かった出来事」じゃなくて、「大切なものを教えてもらった出来事」として残っている。

不思議だな、と思う。

「叱る」と「キレる」を区別できなくなった

ここで、一つの問題に行き当たる。

「叱る」と「キレる」は、似ているけれど、たぶん根本的に違う行為だ。

叱るは、相手のためを思って怒る。理性が完全には消えていない。感情があるけれど、その感情の矛先は、ちゃんと相手の行動に向いている。そして、たいてい、叱る側はあとで疲れて、なんだか申し訳ないような気持ちにもなる。本気で叱るのは、心理的にコストの高い行為だからだ。

キレるは、自分の感情を発散するために怒る。理性が一時的にどこかへ行っている。感情の矛先は、相手にも向いているけれど、それ以上に、自分の中の何かに向いている。そして、キレた側は、たいていあとで爽快感に近いものを覚えていたりする。

この二つは、外から見ると、ちょっと似て見える。声が大きい、顔が赤い、机を叩く。表面の所作は重なっている。けれど、内側で起きていることは、まったく違う。

私たちは、いつからか、この二つを区別できなくなってきた気がする。

その結果、社会には「キレる大人冷静な大人しか残っていない、という景色になりつつある。中間にあった「叱る大人」が、少しずつ消えている。

そして、たぶん、「叱る大人」が消えた社会で育った子どもたちは、本物の怒りに触れずに大人になることになる。

なぜ、大人は本気で怒れなくなったのか

ここで、考えるべきは、「なぜそうなったのか」だと思う。

ハラスメント意識が高まったから、というのは、表面的な答えに過ぎない。もっと深いところで、いくつかの構造的な変化が起きている気がする。

一つ目は、リスクの可視化だ。

昔は、先生が30分間真っ赤になって怒っても、それは教室の中で完結していた。子どもは家に帰って親に話すかもしれないけれど、それで終わりだった。

いまは違う。一報のクレーム、一本の動画、一つの匿名投稿で、その先生の人生が変わる可能性がある。「叱る」という行為の上に、訴訟リスク、炎上リスク、転職市場での評判、子ども自身の精神的トラブルのリスク、保護者対応のリスクが、何層にも積み重なっている。

そのリスクを引き受けてでも本気で怒る、というのは、いまの大人にとって、ものすごくコストの高い選択になっている。冷静に処理するほうが、圧倒的に楽だ。

二つ目は、「冷静=成熟」という価値観の浸透だ。

私たちはいま、感情を露わにすることをほぼ全面的に「未熟さ」と見なす社会で生きている。冷静に対応できる人が「大人」で、感情的になる人は「コントロールできない人」。職場でも、SNSでも、家庭でも、その評価基準はほぼ徹底されている。

そういう価値観の中で、本気で怒るというのは、自分自身を「未熟な人」のカテゴリーに自ら入れる行為になってしまう。だから、本当はちゃんと怒るべき場面でも、人は怒らない。代わりに、「適切なフィードバック」を返す。

三つ目は、関係の薄さだ。

近所のおばさんが私を怒鳴れたのは、彼女が私のことを「自分の地域の子ども」と思っていたからだ。先生が30分怒り続けられたのは、生徒のことを長期的に責任を持って見ていたからだ。父が机を叩けたのは、私の親だったからだ。

本気で怒るには、相手と自分の両方に責任を負う覚悟がいる。「この子が将来どんな大人になるかに、私は関わっている」という感覚がないと、本気で怒るというリスクの高い行為に踏み出せない。

いまの社会では、その「関わり」が薄くなっている。先生は数年で異動する。隣に誰が住んでいるか知らない。会社の上司と部下の関係も流動的だ。短期的にしか関わらない相手に、本気で怒る理由が、構造的に減っている

四つ目は、大人の側にも余裕がなくなっていることだ。

本気で怒るには、エネルギーがいる。怒ったあとに相手と向き合い続ける時間と気力も、いる。誰しもの生活が、いまそういう余裕で満ちているかというと、たぶん、そうじゃない。みんなぎりぎりで生きている。自分の感情を整える余力すらない人が、誰かに本気で怒る、というのは、現実的に難しい。

これらが重なり合って、たぶん、「叱る大人」は構造的に絶滅しつつある。

叱られなかった子どもは、どこへ行くのか

ここで、ちょっと気になることがある。

本気で叱られたことがない子どもは、大人になったとき、何を持っていないのだろう、ということだ。

私の見立てだと、こういうことなのかもしれない。

本気で叱られた経験は、「自分の行動が、他人の心を本気で動かすことがある」という実感を子どもに与える。先生が真っ赤になって怒るとき、子どもは「私は誰かの心を、こんなにも揺さぶる存在なんだ」と知る。それは、自分の行動の重みを知る、という意味でもある。

逆に、冷静に「それはよくないね」と告げられるだけの子どもは、自分の行動が他人にどれくらい影響を与えるかを、計りにくくなる。誰も本気で怒らないということは、誰も本気で困らないということだ。「私の行動は、世界にあまり波紋を立てない」という感覚が、静かに育っていく。

そして、その子が大人になって、初めて誰かに本気で怒られたとき、たぶん、ものすごく傷つく。なぜなら、自分の行動に他人が本気で反応する、ということ自体が、初めての経験だからだ。

最近の若い世代の精神的な脆さの一部は、たぶん、ここに関係している。彼らが弱いんじゃない。本気の感情に触れる経験が、世代として少なすぎたのだ。

それでも、昔の叱責を擁護したいわけじゃない

ここで誤解されたくないのだけれど、私は「だから昔のように叱ろう」「ハラスメント意識など要らない」と言いたいわけじゃない。

昔の「叱責」のかなりの部分は、本当は単なる暴力だった。教師が生徒を殴る、親が子を蹴る、大人が子どもを支配する。それを「指導」と呼んで正当化してきた歴史は、たぶん、終わったほうがいい歴史だ。ハラスメント意識の高まりは、そういう暴力に「ノー」と言うために、絶対に必要だった。

そして、本物のハラスメントを受けて壊れる人がいる現実は、決して軽視されてはいけない。

ただ、私たちは、暴力を排除する過程で、その隣にあった「本気で怒るという別の行為まで、一緒に手放してしまったのかもしれない、ということだ。

「キレる」と「叱る」は違う、と書いた。けれど、その違いを、私たちは社会としてうまく扱えなかった。両方とも「感情を出すこと」というカテゴリーで一緒くたにして、両方とも「未熟」のラベルを貼って、両方とも禁じてしまった。

その結果、本物の暴力は減ったけれど、本物の関わりも減った

冷静になりなさい、と言うのは簡単だ

ここまで考えて、私は「冷静になりなさい」という言葉に対する違和感の正体が、少しだけ見えた気がした。

「冷静になりなさい」は、たいてい、こちらが本気で関わるコストを支払いたくない、という宣言でもある。本気で怒れば、そのあと、相手と向き合い続ける責任が生まれる。冷静に処理すれば、その責任から逃れられる。

私たちは、難しいほうを少しずつ手放して、楽なほうを「成熟」と呼んできた。

もちろん、すべての怒りが正当化されるわけじゃない。本物の暴力は、別問題だ。

ただ、子どもや、後輩や、自分の大切な誰かが、明らかにおかしいことをしたとき、本気で怒ることをちゃんと選べる大人が、社会から少しずつ消えていることは、たぶん、覚えておいてもいいのだと思う。

「叱る」という技術は、本当はものすごく難しい技術だった。

その技術が、いま、人類史上最も早いペースで、忘れられつつあるのかもしれない。

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