「あとでやる」と言ったタスクは、時間ではなく場所にしまわれている
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机の上に、3週間前から同じ場所にある封筒がある。
健康診断の案内だ。「2週間以内にお返事ください」と書いてある。3週間経っている。中身を開けて、ちらっと見て、「あとでやろう」と思って、机の右端に置いた。それから一度も触っていない。視界には毎日入っている。なんなら、毎日その封筒を見ながら、ちょっとずつ罪悪感を積み重ねている。なのに、私はそれをやらない。
これって、なんなんだろう。
考えてみると、これは健康診断の封筒だけの話じゃない。年賀状を書こうと思って買った無地のはがき。ふるさと納税の書類。読もうと思ってベッドの脇に積んだ本。「整理しよう」と思って押し入れに突っ込んだ段ボール。
私たちは、たぶん毎日、こういう「あとで」の残骸に囲まれて暮らしている。
これって、いったいどういう現象なんだろう、と思って考え始めたら、なんだか、思っていたよりずっと変な話に行き着いてしまった。
そもそも、「あとで」はヒトしか持っていない概念らしい
調べていてまず驚いたのは、「あとでやる」という感覚は、たぶんヒトという種にしかないということだった。
たとえばリスは、確かに木の実を埋める。秋に集めた実を、冬のために土の中にしまう。けれど、リスは「あの木の実を掘り出すのを面倒くさがる」ことはない。お腹が空けば掘る。それだけだ。「やろうと思っているのに、やらない」という状態にはならない。
ヒトだけが、これをやる。
「やったほうがいい」と分かっている。「やりたい」とすら思っているときもある。なのに、やらない。代わりに「あとでやる」と言って、その場をやり過ごす。そして、その「あとで」は、ほとんどの場合、来ない。
なぜヒトだけがこんな変なことをするのか、というと、これは言語を持ってしまったかららしい。
動物は、いまこの瞬間に基づいて行動する。お腹が空いた、寒い、危険だ、眠い。すべての判断が「いま」に直結している。ところがヒトは、言語を獲得した結果、「未来」というものを言葉で扱えるようになった。「明日」「来週」「いつか」。これらの言葉を持つことで、ヒトは「いまやらない」という選択肢を手に入れた。
その副作用として、「やらなきゃいけないけど、いまはやりたくない」を言葉で正当化できるようになってしまった。「あとでやる」は、未来という概念を持ったヒトだけが手に入れた、便利で危険な発明品なのだ。
ここまで考えて、私はちょっと納得した。
でも、調べているうちに、もっと変な事実に行き当たってしまった。
「あとでやる」と言ったタスクは、時間にしまわれていない
ここからが、この記事で一番書きたかったことだ。
「あとでやる」は、文字通りに読めば「未来の時間にやる」という意味のはずだ。「あとで」は、明らかに時間を指している言葉だから。
ところが、よく考えると、私たちは「あとで」と言ったタスクを、時間にしまっていない気がするのだ。
たとえば、健康診断の封筒。私はあれを「あとでやろう」と思った。けれど、私の頭の中で起きていたことは、たぶん「3日後の午後にやる」という時間指定じゃなかった。
私がやったのは、それを 机の右端に置いた ことだ。
これが、私の「あとで」だった。時間ではなく、場所に、タスクをしまった。
そう思って自分の生活を見渡してみると、私たちが「あとでやる」と言うとき、ほぼ必ず、物理的にどこかに置き直していることに気づいた。
- 読みかけの本 → ベッドの脇に積む
- 出していない年賀状 → 引き出しの中
- 整理する予定の写真 → 押し入れの段ボール
- 返信していないメール → 「あとで返信」フォルダ
- 受け取った名刺 → デスクの隅
- ちょっと気になった記事 → ブラウザのブックマーク
全部、場所だ。
時間に「あとで」をしまったつもりが、実際にはどこかの物理空間に置いている。机の隅、引き出しの奥、フォルダの中、頭の片隅。
そう思って自分の日本語を見直してみると、「あとで」にまつわる表現が、ほとんど全部、空間の表現だということに気づいてしまった。
日本語のなかの、空間としての「あとで」
「あとでやろう」と思ったとき、私たちはこういう言葉を使う。
「棚上げ」する。「先送り」にする。「置いておく」。「しまっておく」。「寝かせる」。「保留にする」。「頭の片隅に入れておく」。「とりあえず横に置く」。
全部、空間の言葉だ。
棚という場所がある。机の上という場所がある。頭の片隅という場所がある。私たちは「あとで」と言うとき、時間の話をしているつもりで、実は無意識に「場所」の話をしている。日本語にはそういう癖がある。
英語でも同じだ。「Put it off(離れた場所に置く)」「Set aside(脇に置く)」「Shelve it(棚に置く)」「Postpone」という単語そのものが、語源を辿ると「post = 後ろに、pone = 置く」、つまり「後ろに置く」という意味になっている。
つまり、人類の言語そのものが、「あとで」を時間ではなく空間として扱っているらしい。
これは、ちょっと面白い発見だ。
なぜ、私たちは「あとで」を場所にしまうのか
たぶん、私たちの脳が、抽象的な「時間」を扱うのが苦手だからだと思う。
「3日後の午後にこれをやる」という時間指定は、考えてみるとかなり高度な抽象操作だ。3日後の私とは誰なのか、その時間に何をしているのか、何時に手が空くのか。全部曖昧で、つかみどころがない。
それに比べると、「机の右端に置く」というのは、ものすごく具体的だ。手を動かせばすぐにできる。物が物理的にそこに存在する。視界に入る。
だから、私たちの脳は、時間という曖昧なものを扱う代わりに、手っ取り早く空間にタスクをしまうという方法を発明したのだろう、と思う。「あとで」と言いながら、実は「未来の時間」じゃなく、「いまの机の隅」に置いている。それで脳は満足する。「処理した」と感じる。
ただし、これにはちょっとした問題がある。
場所にしまったタスクは、時間が経っても自動的に「いま」に戻ってこないのだ。
時間にしまったタスクなら、その時間が来れば自動的に動き出す。「火曜の14時の予定」は、火曜の14時になれば思い出す。ところが、「机の隅に置いたタスク」は、自分で取りに行かないと、永遠にそこにある。
3週間前に置いた健康診断の封筒は、3週間経っても、同じ場所にある。視界には入っている。けれど、「いま」に戻ってきていない。なぜなら、それは時間にしまわれていないからだ。場所にしまわれている。
そして、ここがいちばん怖いところなのだけれど、場所にしまったタスクは、増え続ける。
机の上の書類。押し入れの段ボール。ブックマークしたまま開いていない記事。「あとで聴く」プレイリストの曲。「あとで観る」リストの動画。スマホのスクショの山。
私たちは「あとで」と言いながら、家中、頭の中、デバイスの中の、あらゆる場所に、タスクを少しずつ堆積させている。
「あとで」は時間ではないので、永遠に溶けない。
「あとで」を、ちょっとだけ意識してみる
「あとでやる」を完全になくすのは、たぶん無理だ。それは言語を持ったヒトとして、もう手放せない道具になっている。動物に戻るわけにはいかない。
ただ、ときどき、自分が「あとで」と言ったときに、「いま自分は、これをどこに置いているんだろう」と一瞬だけ思ってみてもいいかもしれない、と思う。
机の右端だろうか。押し入れの段ボールだろうか。頭の片隅だろうか。「あとで返信」フォルダだろうか。「いつか読む」ブックマークだろうか。
そこに置いた瞬間に、それはたぶん、時間からはほぼ消える。場所にしまわれたまま、これからずっと、私の生活のどこかに、静かに堆積していく。
そう自覚するだけでも、ちょっとは「いま」に取り出す回数が増えるんじゃないか、と思う。
ちなみに、私の机の右端の封筒は、この記事を書き終わったあとに、たぶん開ける。
少なくとも、そのつもりだ。
たぶん。
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